『新・人間革命』第8巻 激流の章 P337~

田島夫妻は、在日韓国人に向けられる、日本社会の冷たい仕打ちにも泣いてきた。しかし、学会の世界は、どこまでも温かかった。自分たちのことを親身になって考え、肉親以上の思いやりをもって、温かく励ましてくれる同志の心に、夫婦は、いつも胸を熱くしてきた。

やがて、正治は、友人と貿易商を営み、そして、独立することになった。さらに、金融の仕事も手がけ、見事に困窮を脱していったのである。

“この仏法はすごい!必ず誰でも幸福になれる。祖国の人たちに、なんとしても、信心を教えたい”強い確信をいだいた田島夫妻は、1959年の秋、勇んで韓国に帰り、親族や知人に仏法、を語っていった。
この時には、まず、美恵の母親が入会した。その後、正治の実家や、美恵の兄嫁も信心を始めている。

夫妻は、幾度となく、韓国に里帰りし、妙法の種子を、一人また一人と植えていったのである。

山本伸一が第三代会長に就任し、世界広布のうねりが広がるなか、祖国の縁者に正法を伝えに行く在日韓国人や韓国出身者のメンバーは、さらに増えていった。

まさに、大聖人が仰せの「地涌の義」さながらに、不思議なる使命の人びとが、韓国のあの地、この地に生まれたのである。

会員は急増していると伝えられていた。しかし、組織化はほとんどなされず、内得信仰をしている人も多かった。韓国のメンバーにとっては、日本から送られてくる学会の出版物や日本の会員からの手紙が、唯一の信心の栄養であったといってよい。そのなかで、韓国の同志は、求道心を燃やし続けてきた。学会本部には、指導を求め、幹部の派遣を要望するメンバーの手紙が、これまでに何百通も届いていたのである。

こうしたことから、学会本部では、幹部の派遣を決定したのである。その目的は、韓国メンバーを激励するとともに、民衆レベルでの日韓の友好を深めることにあった。

ところが、派遣メンバーの鈴本らが、駐日代表部に申請したビザが、なかなか下りないのである。
年が明けて、1月上旬から、韓国の新聞が、突然、学会への批判記事を掲載し始めたのである。

戸惑ったのは、韓国のメンバーであった。“私たちは、何も悪いことなどしていないのに、なぜ、こんなことを書かれるのだろう”

このマスコミの批判と時を同じくして、韓国政府では、日本の文部省に該当する文教部で、学会への対応を協議していた。

そして、16日になって、正式に 渡航不許可の通知が届いたのである。
韓国では、文教部が宗教審議会を開き、創価学会を「反国家的、反民族的な団体」とする結論を出し、「創価学会は、韓国では布教を禁止する」との見解を語った。

在日韓国人のメンバーの驚きは大きかった。皆にとっては、まさに、雲をつかむような、不可解な話であった。

山本伸一は、韓国各紙の学会への激しい批判が始まって以来、冷静に、事態の分析に努めていた。
これらの問題視された一つ一つの内容を見ていくと、いずれも、誤認識がもたらしたものであることは明らかであった。

真実を知らないということは、不安をかきたてるものだ。そして、不安は恐れへと変わっていく。新人をする人たちが、次第に増え続けていくにつれて、韓国の宗教関係者や政府の関係者も慌て出したようだ。また、反日感情の激しい時代でもあった。そこに、「聖教新聞」に、韓国への幹部の派遣が発表されたことから、日本の宗教による侵略が始まるかのように感じられたのであろう。

韓国側が学会を問題視している事柄の大半は、かつて、植民地時代の皇民化政策や軍国主義と結びつけられたものである。それは、甚だしい誤解に基づくものであるが、そこに、足かけ36年にも及んだ、日本の支配の傷の深さをうかがい知ることができる。




太字は 『新・人間革命』第8巻より