『新・人間革命』第8巻 激流の章 P323~
日本に渡った「在日」と呼ばれる人たちの歩みも、辛苦と忍従に満ちていた。
終戦時の45年(昭和20年)には、実に200万人を超えていたと推定されている。
そのなかには、日本の植民地政策によって、農地を失い、働き口を求めて日本に来た人もいた。さらに、37年に、日本と中国が全面戦争に突入すると、徴用などによって、強制的に、日本に連れて来られる人が多くなっていった。労働力確保のために、国策として、国家総動員法、国民徴用令を公布し、朝鮮からも人びとを動員したのである。
日本に連れて来られた人たちは、炭坑や、鉱山、土建関係の仕事などに従事させられたが、賃金は日本人よりもはるかに安く、労働は過酷であった。
広島に原爆が投下されると、朝鮮人までには、手がまわらないと治療も思い通り受けられず、次々と死んでいった。
「在日」の人びとは、同じ、"皇民"といわれながら、実際には、甚だしい差別と屈辱に泣かされてきたのである。しかも、その悲劇は戦後も続いた。終戦を迎え、日本の植民地支配から解放されると、「在日」の人びとの大半は祖国に帰還したが、60数万人が日本に残った。
やがて、サンフランシスコ講和条約が発効されると、日本政府は、在日韓国・朝鮮人は、すべて日本国籍を喪失するとした。そして、「在日」の人びとが日本在住を続けるには、「外国人」として登録することが義務づけられ、さもなければ、日本国籍を取得しなければならないとしたのである。
戦後の、日本政府の在日韓国・朝鮮人への冷酷な対応もさることながら、日本人の根強い偏見と差別の意識も変わらなかった。表向きはともかく、実際には、就職の門戸を固く閉ざしている企業は少なくなかったし、部屋一つ借りるにも、断られることが多かった。
そうしたなかで、戸田城聖は、隣国の民の幸福を祈り、心を砕いていた。
すべての人が幸福になる権利を持っている。いな、最も苦しんだ人こそが最も幸せになる権利があるー
それを実現してきたのが創価学会である。
戸田の会長就任後大折伏が始まると、「在日」の人たちのなかにも、信心をする人が増えていった。
そして、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」と歌い、東洋広布を訴える戸田の心に触れ、メンバーは、同胞の幸福のために働きたいという思いをつのらせていったのである。
在日韓国人のメンバーに、田島正治、美恵という夫妻がいた。正治は、植民地支配下に、農地を失い、移住を余儀なくされた一族であった。妻は 東京生まれの在日二世である。
戦争が終わると、美恵は長男の嫁として初めて祖国の大地を踏む。しかし、祖国に戻った「在日」の人びとは“役に立たぬ”といわれたり、日本に住んでいたために母国語がしゃべれない子供たちは“パンチョクパリ(半日本人)”と言われ、いじめられることもあった。
美恵は祖国に信頼を得ようと必死に働く。そこに朝鮮戦争が勃発し、死を覚悟したこともあった。実父が亡くなったことで、日本に残った夫のもとへ行きたいと思うようになるが、当時、日韓関係は最悪で、一般の渡航は困難で、密入国者として身柄を拘束されてしまうが、ようやく入国が認められる。
夫婦は 横浜で生活を始めるが、子供が結核になり、その時、信心の話を聞き、入会した。
経済のどん底のなかで、同志から激励を受け、自身の宿命を痛感した彼女は、信心で立ち上がろうと決意する。
信心以外に、頼れるものは何もなかった。自分たちの力で、歯を食いしばって生きるしかないということを彼らは、いやというほど痛感してきた。
夫婦は、戸田城聖の大確信に触れ、宿命転換を誓い、猛然と折伏に走った。
日本に渡った「在日」と呼ばれる人たちの歩みも、辛苦と忍従に満ちていた。
終戦時の45年(昭和20年)には、実に200万人を超えていたと推定されている。
そのなかには、日本の植民地政策によって、農地を失い、働き口を求めて日本に来た人もいた。さらに、37年に、日本と中国が全面戦争に突入すると、徴用などによって、強制的に、日本に連れて来られる人が多くなっていった。労働力確保のために、国策として、国家総動員法、国民徴用令を公布し、朝鮮からも人びとを動員したのである。
日本に連れて来られた人たちは、炭坑や、鉱山、土建関係の仕事などに従事させられたが、賃金は日本人よりもはるかに安く、労働は過酷であった。
広島に原爆が投下されると、朝鮮人までには、手がまわらないと治療も思い通り受けられず、次々と死んでいった。
「在日」の人びとは、同じ、"皇民"といわれながら、実際には、甚だしい差別と屈辱に泣かされてきたのである。しかも、その悲劇は戦後も続いた。終戦を迎え、日本の植民地支配から解放されると、「在日」の人びとの大半は祖国に帰還したが、60数万人が日本に残った。
やがて、サンフランシスコ講和条約が発効されると、日本政府は、在日韓国・朝鮮人は、すべて日本国籍を喪失するとした。そして、「在日」の人びとが日本在住を続けるには、「外国人」として登録することが義務づけられ、さもなければ、日本国籍を取得しなければならないとしたのである。
戦後の、日本政府の在日韓国・朝鮮人への冷酷な対応もさることながら、日本人の根強い偏見と差別の意識も変わらなかった。表向きはともかく、実際には、就職の門戸を固く閉ざしている企業は少なくなかったし、部屋一つ借りるにも、断られることが多かった。
そうしたなかで、戸田城聖は、隣国の民の幸福を祈り、心を砕いていた。
すべての人が幸福になる権利を持っている。いな、最も苦しんだ人こそが最も幸せになる権利があるー
それを実現してきたのが創価学会である。
戸田の会長就任後大折伏が始まると、「在日」の人たちのなかにも、信心をする人が増えていった。
そして、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」と歌い、東洋広布を訴える戸田の心に触れ、メンバーは、同胞の幸福のために働きたいという思いをつのらせていったのである。
在日韓国人のメンバーに、田島正治、美恵という夫妻がいた。正治は、植民地支配下に、農地を失い、移住を余儀なくされた一族であった。妻は 東京生まれの在日二世である。
戦争が終わると、美恵は長男の嫁として初めて祖国の大地を踏む。しかし、祖国に戻った「在日」の人びとは“役に立たぬ”といわれたり、日本に住んでいたために母国語がしゃべれない子供たちは“パンチョクパリ(半日本人)”と言われ、いじめられることもあった。
美恵は祖国に信頼を得ようと必死に働く。そこに朝鮮戦争が勃発し、死を覚悟したこともあった。実父が亡くなったことで、日本に残った夫のもとへ行きたいと思うようになるが、当時、日韓関係は最悪で、一般の渡航は困難で、密入国者として身柄を拘束されてしまうが、ようやく入国が認められる。
夫婦は 横浜で生活を始めるが、子供が結核になり、その時、信心の話を聞き、入会した。
経済のどん底のなかで、同志から激励を受け、自身の宿命を痛感した彼女は、信心で立ち上がろうと決意する。
信心以外に、頼れるものは何もなかった。自分たちの力で、歯を食いしばって生きるしかないということを彼らは、いやというほど痛感してきた。
夫婦は、戸田城聖の大確信に触れ、宿命転換を誓い、猛然と折伏に走った。
太字は 『新・人間革命』第8巻より