『新・人間革命』第8巻 激流の章 P312~

1964年、学会本部で初勤行会に集った幹部たちは、いよいよ今年は、戸田先生の七回忌を期して、「本門の時代」を迎える。広宣流布の新段階に入るのだー こう思うと、参加者の瞳は、一段と決意に輝くのであった。

伸一も、5月には、オーストラリア、セイロン、インドなどを訪問し、10月には、東欧を含むヨーロッパ訪問が決まっていた。また、1月15日には、理事の鈴本実らの5人が韓国の7都市を訪問し、メンバーと交流することになっていた。

韓国には、当時、信心をしている人が少なくとも、千世帯以上になっていたようであった。日本の会員たちは、韓国に対しては、特に強い親近感をいだいていた。戦時中、韓・朝鮮半島に行っていた人もいたし、各組織には、日々、ともに信心に励んでいる、在日韓国人のメンバーも少なくなかった。

韓国は、かつて日本の侵略の犠牲になった。だから、今度は、私たちが、韓国の人びとの幸福のために尽力していくのだーというのが、日本の同志の共通した思いであった。

伸一の父親は、戦前、京城(ソウル)にいたことがあった。徴兵を受け派遣されたのである。その時の話題になると、父は日本人の傲慢と横暴を「本当に日本はひどい」と、小学生の伸一を相手に憤るのが常であった。それだけに、伸一の韓国への思いは深かった。

彼は、韓国は日本にとって、「文化の大恩人」であり、その恩に報いるためにも、幸福と平和の大哲理を伝えていかなくてはならないと考えていた。また、日韓の民衆と民衆が交流を図り、深い友情で結ばれていくことが、将来のために、何よりも必要であると言うのが、伸一の主張であった。

絶大なる恩恵の中の「大恩」こそ、仏教の伝来であった。日蓮大聖人は、御書のなかで、この「精神の宝」を伝えてくれた偉業に、何度も言及されている。「百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金剛の教主釈尊を渡し奉る」朝鮮の地は、まさに文化の先進地であった。

『日本書紀』にも謳われた、日本人の憧れの地であった。ところが、一方で、同じ『日本書紀』には、朝鮮を見下し、蔑視する記述も現れている。そこには、ようやく、国家の体裁を整えた、新興の島国のナショナリズムともいうべき競争心が働いていたのであろう。だが、それは恩恵を受けた国への嫉妬と劣等感の裏返しでもある。

他者を蔑み、貶めることによって、自分を偉く見せようとするのが、心に劣等感をいだく人間の常であるからだ。

16世紀末、豊臣秀吉による朝鮮侵攻は、暴虐非道な侵略であった。
19世紀後半、近代化へ踏み出した日本は「富国強兵」のスローガンを掲げ、アジアへの進出を開始していった。韓・朝鮮半島は、大陸進出をめざす日本が、なんとしても獲得したい領土であった。

やがて、日清・日露戦争に突入するが、その舞台は、韓・朝鮮半島であった。
1910年「韓国併合条約」の調印となり、日本による韓国の、徹底した支配の確立であり、足かけ36年の 日本による 暗黒の朝鮮支配が始まった。

以後、韓・朝鮮半島は、日本の大陸侵略の基地として、過酷な搾取を強いられ続けていく。
日中戦争が激化していくと、「内鮮一体」のスローガンのもと、韓民族の「皇民化」が進められていった。日本語を学ぶよう強制され、日本名に変えさせる「創氏改名」を行い、韓民族の文化や伝統、精神性を徹底して否定していった。日本が韓・朝鮮半島を支配した、あまりにも、暗く、長い夜の歴史であった。


太字は 『新・人間革命』第8巻より