『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P316~

「公明政治連盟」の基本要綱、基本政策を発表した後、記者団からの質問に答える関。


記者は「憲法のすべての条文を擁護するならば、『信教の自由』も 守り続けるのか。日蓮は他宗派を認めず、折伏を行ってきた。それは、憲法と矛盾するのではないか」と質問した。

「折伏とは自らの宗教的信念を語ることであり、対話による布教です。それは、一人ひとりの納得と共感のうえに成り立つものです。つまり、『信教の自由』『言論の自由』を大前提として、私たちは布教を行っているのです。」

「自分たちの信ずる宗教が最高であると言いきれないとするなら、それを布教することほど無責任なものはありません。キリスト教にしても、あるいはイスラム教にせよ、皆、自分たちの教えが最高であると主張しています。その確信こそ宗教の生命であり、そこに宗教者の誇りと良心があるんです。」

記者たちの質問には、宗教への誤解と偏見が潜んでいた。


ある記者が尋ねた。
「学会は『公明政治連盟』の力で、やがては日蓮正宗を国教にするという考えはあるのですか」

関久男は言下に答えた。「ありません」

本来、信仰とは、人間の最も内発的な営みである。政治権力など、他からの外圧的な力で、強制し、本当の信仰心を育てることなど絶対にできない。

もし、国教になどなれば、かえって信仰の堕落を招き、大聖人の仏法の精神は滅び、形骸化していくだけである。


別の記者が、皮肉な笑いを浮かべながら質問した。
「『公明選挙』をうたっていますが、折伏などといって、無理やり投票させるようなことが、公明選挙になるんでしょうかね」

関は憮然として言った。「君、創価学会がいつ、選挙を折伏だなどといって、無理やり投票させたことがありましたか!」  
「・・・・」
「調べもせずに、偏見と憶測で、ものを言うことは慎んでもらいたい」
学会への無認識をさらけ出す問いであった。


記者会見は間もなく終わったが、「公明政治連盟」の結成を取り上げた新聞はいたって少なかった。
1、2の新聞が 一段ほどで、報道しただけであった。

多くの記者たちは、創価学会は政治を支配し、日蓮正宗を国教にするために、個人の意思とは無関係に、会員を選挙に駆り立てていると、勝手に憶測しているようであった。


彼らが、その憶測の根拠としていたのが、かつて、戸田城聖が広宣流布の姿として、「国立戒壇」の建立という表現を、何度か使っていたことであった。

日蓮大聖人は、法華経の本門文底の教えである三大秘宝の戒壇の建立を、後世の弟子たちに託された。
「三大秘宝抄」に「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一堂に本門の三秘密の法を持ちて・・・」と仰せである。

この「三大秘宝抄」の戒壇を、「国立戒壇」と言い出したのは、明治期に日蓮宗(身延派)から出て、立正安国会(のちの国柱会)をつくった田中智学であった。

彼の発想は、極めて国粋主義的、国家主義的であった。彼は大聖人の御書を、自らの“国体至上主義”を鼓吹するための道具とした。

"国体思想”に沿って、この御文を解釈していった。そのため、「王法」は即、"神国日本"という国家に直結し、すべては、そこに組み込まれていった。

彼は、法華経は世界を統一すべき教えであり、日本は世界を統一すべき国であると主張し、日本が世界を統一するためには、武力侵略をも、積極的にこうていしていったのである。

彼は、建立すべき地を、富士山とし、この"富士戒壇論"をめぐり、日蓮系各派で論議が わき起こり、その中で、本門の戒壇に安置すべき御本尊にも議論が及び、大石寺の大御本尊への批判があったことから、日蓮正宗も反論するに至った。

このやり取りの中で、相手が用いた「国立戒壇」という言葉を日蓮正宗側も使ったために、日蓮正宗も、戒壇は「国立」を前提としているかのような論の展開になっていった。

そして、軍国主義の流れのなかで、次第に宗門も国家主義的な考え方に傾斜していき、「国立戒壇」は当然であるかのような風潮がつくられていった。

さらに、戦後も、宗門では本門を、「国立戒壇」といっていたのである。

このため、信徒である戸田城聖も、本門の戒壇について語る際に「国立戒壇」という言葉を使用したことがあった。

しかし、戸田が念願としていたのは、単に、戒壇という建物を建立し、それを「国立」にするなどと言ったことではなかった。

彼は、日蓮大聖人の大願は民衆の幸福にあり、戒壇の建立といっても、そのための広宣流布の象徴であると考えていた。


戸田は会合で彼の考えを明確に語っている。
「ある僧侶が、『広宣流布の暁には、天皇陛下がお寺を建ててくださって、りっぱになるのだ』と話すのを聞いて 唖然とした。」

「仮に 広宣流布が現実に行われて、勅宣・御教書をたまわったとして、大御本尊のありがたさを、日本国じゅうの人に伝えるでしょう。すると、信心なき者がたくさん参詣にくる。そうして、この信心なき人々が、どれほど御本尊を粗末にすることでしょうか」

この言葉にも明らかなように、戸田は、仮に「国立戒壇」ができたとしても、人びとの信仰の確立がなければ、民衆の幸福も一国の繁栄もありえないことを痛感していた。むしろ、それによって、人びとの信仰が失われ、形骸化を招くことを恐れていたのである。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋