『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P289~
山本伸一は、1月13日 雪の北海道へ飛んだ。
夕刻から 北海道女子部の部長であった嵐山春子の北海道女子部葬に出席する。
いかに深き宿命とはいえ、若くして、広宣流布の途上に散った嵐山のことを考えると胸が張り裂けそうな思いであった。
結核を治すために、療養に専念するよう指導していたが、彼女はいつまでも病床に付していることに、耐えられなかったようだ。
伸一の激励に、入院し、治療に専念すると 医師が「結核は治っている」と告げられた。体力が回復すれば、1か月ほどで退院できるといわれていたが、それから間もなく心不全で亡くなった。
しかし、それから間もない12月14日 嵐山は臨終の時を迎えた。
結核という病を乗り越え、宿業を転換し、今世の使命を終えた証明とも見える。
北海道女子部葬は、幹部や千人の女子部員が参列して、厳粛に営まれた。
この一女性の活躍によって、どれほど多くの女子部員が立ち上がり、北海道の広布の流れが広がっていったか計り知れない。友の幸福のために一身を捧げて、広宣流布に生き抜いた彼女は、さながら“妙法のジャンヌ・ダルク”であった。
伸一は、嵐山春子の死の意味について、思いをめぐらしていた。
26年という彼女の人生は、あまりにも短かった。だが、それは、自身の生涯の使命を全うしての死であったと、私には思えてならない。
彼女は、純白の雪のように清らかな信心の模範を、後世に残してくれた。その炎のごとき求道の姿勢と、友を思う心は、永遠に色あせることはない。いや、それは、時とともに、益々黄金の輝きを放ち、彼女の志を受け継ぐ幾千幾万の嵐山春子が誕生していくにちがいない。
また、地涌の使命に生きる同志の絆は永遠である。
伸一は「総勘文抄」の御文を思い起こした。
「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死すべき終わりも無し」(生と死という二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顚倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めもないので、死ぬという終わりもないのである)
仏法の眼から見るならば、彼女の生命は滅することなく、大宇宙とともに、永遠に生き続けているのだ。彼は、この御文を噛み締めると、やがて、また彼女が、同志として自分の身近なところに生まれ、
広宣流布の大舞台をさっそうと駆け巡る日が来ることを、強く確信できた。
嵐山によって結成された北海道鼓笛隊が、北海道女子部の愛唱歌を演奏した。
しかし、ファイフの音もかすれ、調べはしばしばとぎれそうになった。皆、涙がこみあげてきて、演奏することができないのである。演奏に耳を傾ける友の顔も、涙に濡れていた。その姿は、嵐山の志を受け継ごうとする北海道女子部の、珠玉の誓いの輝きでもあった。
伸一は、嵐山の遺徳を称え、春になったら、桜の木を植えようと提案する。嵐山を顕彰するのはもちろん、悲しみに沈む彼女たちの心に、未来への希望の明かりを灯したかったからであった。
翌日開催された北海道総支部幹部会では、伸一は、北海道に来るたびに、同志の身なりも立派になり、生気にあふれた姿になってきていること自体、仏法の偉大なる功力の実証であると述べ、皆の成長を称え、いよいよ広宣流布の時が来ていることを訴えていった。
太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋
山本伸一は、1月13日 雪の北海道へ飛んだ。
夕刻から 北海道女子部の部長であった嵐山春子の北海道女子部葬に出席する。
いかに深き宿命とはいえ、若くして、広宣流布の途上に散った嵐山のことを考えると胸が張り裂けそうな思いであった。
結核を治すために、療養に専念するよう指導していたが、彼女はいつまでも病床に付していることに、耐えられなかったようだ。
伸一の激励に、入院し、治療に専念すると 医師が「結核は治っている」と告げられた。体力が回復すれば、1か月ほどで退院できるといわれていたが、それから間もなく心不全で亡くなった。
しかし、それから間もない12月14日 嵐山は臨終の時を迎えた。
結核という病を乗り越え、宿業を転換し、今世の使命を終えた証明とも見える。
北海道女子部葬は、幹部や千人の女子部員が参列して、厳粛に営まれた。
この一女性の活躍によって、どれほど多くの女子部員が立ち上がり、北海道の広布の流れが広がっていったか計り知れない。友の幸福のために一身を捧げて、広宣流布に生き抜いた彼女は、さながら“妙法のジャンヌ・ダルク”であった。
伸一は、嵐山春子の死の意味について、思いをめぐらしていた。
26年という彼女の人生は、あまりにも短かった。だが、それは、自身の生涯の使命を全うしての死であったと、私には思えてならない。
彼女は、純白の雪のように清らかな信心の模範を、後世に残してくれた。その炎のごとき求道の姿勢と、友を思う心は、永遠に色あせることはない。いや、それは、時とともに、益々黄金の輝きを放ち、彼女の志を受け継ぐ幾千幾万の嵐山春子が誕生していくにちがいない。
また、地涌の使命に生きる同志の絆は永遠である。
伸一は「総勘文抄」の御文を思い起こした。
「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死すべき終わりも無し」(生と死という二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顚倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めもないので、死ぬという終わりもないのである)
仏法の眼から見るならば、彼女の生命は滅することなく、大宇宙とともに、永遠に生き続けているのだ。彼は、この御文を噛み締めると、やがて、また彼女が、同志として自分の身近なところに生まれ、
広宣流布の大舞台をさっそうと駆け巡る日が来ることを、強く確信できた。
嵐山によって結成された北海道鼓笛隊が、北海道女子部の愛唱歌を演奏した。
しかし、ファイフの音もかすれ、調べはしばしばとぎれそうになった。皆、涙がこみあげてきて、演奏することができないのである。演奏に耳を傾ける友の顔も、涙に濡れていた。その姿は、嵐山の志を受け継ごうとする北海道女子部の、珠玉の誓いの輝きでもあった。
伸一は、嵐山の遺徳を称え、春になったら、桜の木を植えようと提案する。嵐山を顕彰するのはもちろん、悲しみに沈む彼女たちの心に、未来への希望の明かりを灯したかったからであった。
翌日開催された北海道総支部幹部会では、伸一は、北海道に来るたびに、同志の身なりも立派になり、生気にあふれた姿になってきていること自体、仏法の偉大なる功力の実証であると述べ、皆の成長を称え、いよいよ広宣流布の時が来ていることを訴えていった。