慢心と名聞名利
信心によって人生を 善の方向へ転換させる方法をしりながら、
人は 「名聞名利」と 「慢心」にむしばまれていく。
どうしてそれに、気がつかないのか。
人の心ほど移ろいやすいものはない。
善にも悪にも、動いていく・・・。
『新・人間革命』第2巻 「勇舞」の章 p183~
支部婦人部長の人事が 発令されると、新支部婦人部長に対する
激しい批判の手紙が 学会本部に届く。
それは、最初に支部婦人部長の候補にあがっていた、地区担当員が、
表面は 平静を装いながら、自分と親しいメンバーを扇動し、
批判を仕向けていることだとわかる。
その地区担当員は、長年にわたる闘病生活の末に仏法に巡り合い、
病を克服した体験をもっていて、折伏の成果もあげていた。
信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、
団結を破壊しようとするのか。
日蓮大聖人は、「若し己心の外に法ありと思わば全く妙法にあらず」と仰せである。
つまり自分自身が一念三千の当体であり、幸福も不幸も、
その原因は自己の生命のなかにあると自覚することから仏法は始まる。
しかし、周囲の人を嫉妬するというのは、自分の幸・不幸の原因を他人に見いだし、
“己心の外”に法を求めているからにほかならない。
そうした考えに陥れば、状況が変化するたびに一喜一憂し、困難や苦しみにあえば、
周囲を恨み、憎むことになってしまう。そこには自分を見つめることも、反省もない。
ゆえに成長も、人間革命もなく、結局は自分を不幸にしてしまうことになる。
また、組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、
長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。
問題は、そこで自分がどうするかだ。
批判して終わるのか、助け、補うのかである。
中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。
自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、
一歩でも磨き高めようと挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。
そこにのみ、無量の功徳があり、福運を積みゆくことができるのだ。
逆に 支部婦人部長の資格がないと批判され落ち込む 支部婦人部長に対しては、
「仏法は勝負です。
魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、
巧妙に、学会の団結を乱そうとします。
・・・同志の嫉妬となって現れることもある。
あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。
また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。
こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。
それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強情な信心の一念しかありません。」
と、今こそ唱題で境涯を開き困難に挑むよう指導する山本伸一であった。
この時、組織を攪乱した婦人は、一時期は、先輩の指導によって立ち直り、
幹部として活動していたが、後に夫妻で退転、反逆し、
結局、自ら学会を去って行った。
邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、
学会の正義と清らかさの証明がある。
太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋
信心によって人生を 善の方向へ転換させる方法をしりながら、
人は 「名聞名利」と 「慢心」にむしばまれていく。
どうしてそれに、気がつかないのか。
人の心ほど移ろいやすいものはない。
善にも悪にも、動いていく・・・。
『新・人間革命』第2巻 「勇舞」の章 p183~
支部婦人部長の人事が 発令されると、新支部婦人部長に対する
激しい批判の手紙が 学会本部に届く。
それは、最初に支部婦人部長の候補にあがっていた、地区担当員が、
表面は 平静を装いながら、自分と親しいメンバーを扇動し、
批判を仕向けていることだとわかる。
その地区担当員は、長年にわたる闘病生活の末に仏法に巡り合い、
病を克服した体験をもっていて、折伏の成果もあげていた。
信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、
団結を破壊しようとするのか。
日蓮大聖人は、「若し己心の外に法ありと思わば全く妙法にあらず」と仰せである。
つまり自分自身が一念三千の当体であり、幸福も不幸も、
その原因は自己の生命のなかにあると自覚することから仏法は始まる。
しかし、周囲の人を嫉妬するというのは、自分の幸・不幸の原因を他人に見いだし、
“己心の外”に法を求めているからにほかならない。
そうした考えに陥れば、状況が変化するたびに一喜一憂し、困難や苦しみにあえば、
周囲を恨み、憎むことになってしまう。そこには自分を見つめることも、反省もない。
ゆえに成長も、人間革命もなく、結局は自分を不幸にしてしまうことになる。
また、組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、
長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。
問題は、そこで自分がどうするかだ。
批判して終わるのか、助け、補うのかである。
中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。
自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、
一歩でも磨き高めようと挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。
そこにのみ、無量の功徳があり、福運を積みゆくことができるのだ。
逆に 支部婦人部長の資格がないと批判され落ち込む 支部婦人部長に対しては、
「仏法は勝負です。
魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、
巧妙に、学会の団結を乱そうとします。
・・・同志の嫉妬となって現れることもある。
あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。
また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。
こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。
それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強情な信心の一念しかありません。」
と、今こそ唱題で境涯を開き困難に挑むよう指導する山本伸一であった。
この時、組織を攪乱した婦人は、一時期は、先輩の指導によって立ち直り、
幹部として活動していたが、後に夫妻で退転、反逆し、
結局、自ら学会を去って行った。
邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、
学会の正義と清らかさの証明がある。
太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋