『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 268p
世界の指導者識者と心を結び合っていくために、伸一が友好の対話とともに力を注いだのが、自らの真情や賞賛の思いを詩に詠んで贈ることであった。
人間の心の奥深く、目には見えない黄金の琴線がある。詩の言葉は、その見えざる琴線に働きかけ、共鳴音を奏でる。やがて、それは、友情と平和の高らかな調べとなる。伸一は、広宣流布にかける全世界の尊き同志を励まし、活動の指針、人生の指針を示すためにも、詩を贈り続けた。
伸一は、詩を通して、人間の道を、信仰のあるべき姿を、進むべき目標を示し、希望を、勇気を発信し続けていったのである。
山本伸一は、第三代会長辞任から10余年、世界平和の道が開かれることを願い、広宣流布の大潮流をつくらんと、走りに走り、語りに語ってきた。そのなかで世界は、一つの大きな転機を迎えようとしていた。東西冷戦の終結である。
東西両陣営の対立の端緒は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)2月、クリミア半島南部のヤルタで行われたヤルタ会談にある。これによって、戦後の国際秩序の枠組みがつくられ、ヨーロッパは、アメリカを支持する資本主義の西側陣営と、ソ連を支持する社会主義の東側陣営に分かれていった。
そして、ソ連は、世界の社会主義国化を進めようとし、一方のアメリカは世界の国々を自国の影響下に置こうと、戦後、両者の核軍拡競争が続いていったのである。
核を保有する両国の、直接の戦争はないことから、「冷戦」と呼ばれたが、そこには、常に「熱戦」になりかねない危険性があった。さらに、東西の対立は、ベトナム戦争のように、アジアをはじめ、世界に広がり、悲惨な戦争をもらしていったのである。
しかも、同じ社会主義陣営のなかで、ソ連と中国の間に紛争が起こり、対立は、複雑な様相を呈していった。分断は分断を促進させる。ゆえに、人間という普遍的な共通項に立ち返ろうとする、統合の哲学の確立が求められるのである。
ーー伸一は、人類の歴史は必ずや平和の方向へ、融合の流れへと向かっていくことを強く確信していた。いや、“断じて、そうさせていかねばならない”というのが、彼の決意であった。
やがて、米ソの間にも、緊張緩和への流れが生じ始めた。そして、70年代には、米ソはSALT1、SALT2の調印にまでこぎ着けたのである。世界にとっても、歴史的な出来事であった。そのなかで、伸一が、憂慮してきたのが、中ソ紛争であった。
彼は、民間人の立場から、中ソ首脳に和睦の道を歩むよう、直接、訴えていった。74年9月には、ソ連を初訪問し、コスイギン首相と会見した。首相からは、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との明確な回答を引き出した。そして、12月の第二次訪中では、このソ連の考えを中国側に伝え、周恩来総理と会見したのである。
戦争を行うのは人間である。ならば、人間の力でなくせぬ戦争はないーー伸一は、そう強く確信し、第二次訪中を果たした。周総理は、彼との会見を強く希望し、入院中であるにもかかわらず、医師の制止を振り切って、迎えてくれた。中ソの和平を願う自分の心は、周総理の胸に、確かに届いたと感じた。
1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、西側諸国は激しく反発した。80年のモスクワ・オリンピックを西側の多くの国々がボイコットした。その報復として東側諸国は、アメリカによるグレナダ侵攻を理由に、84年のロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。時代の流れは、逆戻りし、「新冷戦」と呼ばれる状況になっていったのである。
伸一は、東西対立を乗り越えるために、各国首脳らと対話を重ね、具体的な提案を行ってきた。この冷戦にピリオドを打つ、大きな役割を担ったのが、ソ連のゴルバチョフであった。85年11月、ジュネーブで米ソ首脳会談が再開されたのである。
伸一は、このニュースに、時が来たことを感じた。かねてからの念願が、はからずも実現したのだ。ゴルバチョフは、膠着した状況にあったアフガニスタンからの撤兵を決断した。87年12月、米ソ間で、軍事史上画期的な中距離核戦力(INF)の全廃条約が調印された。
ソ連の改革は東欧の国々にも及び、自由と民主の潮流は一気に広がり、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなどで共産党政権が倒れていった。東欧革命である。1989年、地中海のマルタで、米ソ首脳会談が行われた。そして、両国の首脳が初めて共同記者会見を行い、東西冷戦が終わり、新しい時代が到来したことを宣言したのである。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
世界の指導者識者と心を結び合っていくために、伸一が友好の対話とともに力を注いだのが、自らの真情や賞賛の思いを詩に詠んで贈ることであった。
人間の心の奥深く、目には見えない黄金の琴線がある。詩の言葉は、その見えざる琴線に働きかけ、共鳴音を奏でる。やがて、それは、友情と平和の高らかな調べとなる。伸一は、広宣流布にかける全世界の尊き同志を励まし、活動の指針、人生の指針を示すためにも、詩を贈り続けた。
伸一は、詩を通して、人間の道を、信仰のあるべき姿を、進むべき目標を示し、希望を、勇気を発信し続けていったのである。
山本伸一は、第三代会長辞任から10余年、世界平和の道が開かれることを願い、広宣流布の大潮流をつくらんと、走りに走り、語りに語ってきた。そのなかで世界は、一つの大きな転機を迎えようとしていた。東西冷戦の終結である。
東西両陣営の対立の端緒は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)2月、クリミア半島南部のヤルタで行われたヤルタ会談にある。これによって、戦後の国際秩序の枠組みがつくられ、ヨーロッパは、アメリカを支持する資本主義の西側陣営と、ソ連を支持する社会主義の東側陣営に分かれていった。
そして、ソ連は、世界の社会主義国化を進めようとし、一方のアメリカは世界の国々を自国の影響下に置こうと、戦後、両者の核軍拡競争が続いていったのである。
核を保有する両国の、直接の戦争はないことから、「冷戦」と呼ばれたが、そこには、常に「熱戦」になりかねない危険性があった。さらに、東西の対立は、ベトナム戦争のように、アジアをはじめ、世界に広がり、悲惨な戦争をもらしていったのである。
しかも、同じ社会主義陣営のなかで、ソ連と中国の間に紛争が起こり、対立は、複雑な様相を呈していった。分断は分断を促進させる。ゆえに、人間という普遍的な共通項に立ち返ろうとする、統合の哲学の確立が求められるのである。
ーー伸一は、人類の歴史は必ずや平和の方向へ、融合の流れへと向かっていくことを強く確信していた。いや、“断じて、そうさせていかねばならない”というのが、彼の決意であった。
やがて、米ソの間にも、緊張緩和への流れが生じ始めた。そして、70年代には、米ソはSALT1、SALT2の調印にまでこぎ着けたのである。世界にとっても、歴史的な出来事であった。そのなかで、伸一が、憂慮してきたのが、中ソ紛争であった。
彼は、民間人の立場から、中ソ首脳に和睦の道を歩むよう、直接、訴えていった。74年9月には、ソ連を初訪問し、コスイギン首相と会見した。首相からは、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との明確な回答を引き出した。そして、12月の第二次訪中では、このソ連の考えを中国側に伝え、周恩来総理と会見したのである。
戦争を行うのは人間である。ならば、人間の力でなくせぬ戦争はないーー伸一は、そう強く確信し、第二次訪中を果たした。周総理は、彼との会見を強く希望し、入院中であるにもかかわらず、医師の制止を振り切って、迎えてくれた。中ソの和平を願う自分の心は、周総理の胸に、確かに届いたと感じた。
1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、西側諸国は激しく反発した。80年のモスクワ・オリンピックを西側の多くの国々がボイコットした。その報復として東側諸国は、アメリカによるグレナダ侵攻を理由に、84年のロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。時代の流れは、逆戻りし、「新冷戦」と呼ばれる状況になっていったのである。
伸一は、東西対立を乗り越えるために、各国首脳らと対話を重ね、具体的な提案を行ってきた。この冷戦にピリオドを打つ、大きな役割を担ったのが、ソ連のゴルバチョフであった。85年11月、ジュネーブで米ソ首脳会談が再開されたのである。
伸一は、このニュースに、時が来たことを感じた。かねてからの念願が、はからずも実現したのだ。ゴルバチョフは、膠着した状況にあったアフガニスタンからの撤兵を決断した。87年12月、米ソ間で、軍事史上画期的な中距離核戦力(INF)の全廃条約が調印された。
ソ連の改革は東欧の国々にも及び、自由と民主の潮流は一気に広がり、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなどで共産党政権が倒れていった。東欧革命である。1989年、地中海のマルタで、米ソ首脳会談が行われた。そして、両国の首脳が初めて共同記者会見を行い、東西冷戦が終わり、新しい時代が到来したことを宣言したのである。