小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

宗門による離間工作始まる

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 295p

伸一が、ベートーベンの「歓喜の歌」を大合唱していこうと提案したことについて、“ドイツ語で「歓喜の歌」を歌うのは、キリスト教の神を讃嘆することになり、大聖人の御聖意に反する”などと、レッテルを貼ったうえでの質問であった。

12月16日、伸一は、ベートーベンの誕生の日とされ、生誕220年に当たることから、楽聖の“わが精神の王国は天空にあり”との毅然たる生き方に言及した。

宗門の「お尋ね」と題する質問文書に対して、学会は「あくまでも話し合いで、理解を深めさせていただきたい」との返書を送った。併せて、僧俗和合していくために、これまで思い悩んでいた事柄や疑問を、率直に、「お伺い」することにした。

26日付で宗門から書面が届いた。「『お伺い』なる文書をもって、事実無根のことがらを含む9項目の詰問状を提出せられるなど、まことにもって無慚無愧という他ありません」「11・16のスピーチについては、文書による誠意ある回答を示される意志が全くないものと受けとめました」

翌27日、宗門は臨時宗会を開き、宗規の改正を行った。これまで任期のなかった総講頭の任期を5年とし、それ以外の役員らの任期を3年とした。また、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」は処分できるとなった。

この変更された宗規は、即日施行され、総講頭の伸一も、大講頭の秋月や森川らも、資格を喪失することになる。宗門の狙いは明白であった。宗規改正を理由に、伸一の宗内における立場を剥奪し、やがては学会を壊滅させ、宗門の権威権力のもとに、会員を隷属させることにあった。

宗門は、総講頭等の資格喪失について、28日にはマスコミに伝えていた。本人に通知が届く前である。学会員は、新聞の報道などで、宗門の宗規改正によって、名誉会長の山本伸一や学会の首脳幹部らが、法華講総講頭・大講頭の資格を失ったことを知った。

同志たちは、予期せぬ事態に驚くとともに、宗門への強い怒りを覚えた。資格喪失の通知が届いたのは、29日であった。年末の慌ただしい時期ではあったが、学会では、各県・区で、緊急の幹部会を開くなどして、宗門の問題について状況を説明した。迅速な対応であった。

学会が「平和と拡大の年」と定めた1991年(平成3年)が明けた。創価の同志は、この新春、全国各地の会館で、また、海外75カ国・地域で、晴れやかに新年勤行会を開催し、希望あふれる1年のスタートを切った。

1月2日、会長の秋月と、理事長の森川が登山し、日顕との話し合いを求めたが、宗門は拒否した。その後も彼らは、学会に対して、「目通りの儀、適わぬ身」などと対話を拒絶し續けたのである。12日付で宗門から文書が送られてきた。

宗門の「お尋ね」のなかで、伸一の発言だとして詰問してきた引用に、幾つかの重要な誤りがあった。また、明らかに意味を取り違えている個所や、なんの裏づけもない伝聞に基づく質問もあった。

この文書は、学会が、それを具体的に指摘したことに対する回答であった。宗門は、数か所の誤りを認めて撤回した。それにより、主張の論拠は根底から崩れたのである。

しかし、彼らは、学会への理不尽な措置を改めず、僧俗の関係についても、「本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは大きな慢心の表れであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するもの」とまで言っているのだ。

もはや看過しておくわけにはいかなかった。日蓮仏法の根幹を歪め、世界広布を根本から阻む元凶になりかねないからだ。学会としては、誤りが明らかになったことから、公式謝罪を強く要求した。また、「お尋ね」文書の引用には、このほかにも重要な誤りがあることを学会は指摘しており、それについても回答するよう求めた。

宗門は、学会の再三にわたる話し合いの要請を、ことごとく拒否してきたが、大聖人は、「立正安国論」でも仰せのように、対話主義を貫かれている。

しかし、日顕ら宗門は、その法理に反して、日本の檀家制度以来の、僧が「上」、信徒は「下」という考えを踏襲し、それを学会に押しつけ、隷属させようとしたのだ。

日蓮大聖人は、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使いと見えたり」と、僧俗も、性差も超えた、人間の平等を明確に宣言されている。





太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

学会破壊の陰謀を開始

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 287p

苦難に負けず、労苦を重ねた分だけ、強く、深くなり、どんな試練も乗り越えていける力が培われていく。さらに、人の苦しみ、悲しみがわかり、悩める人と共感、同苦し、心から励ましていくことができる、大きな境涯の自分になれる。

また、苦難に挫けることなく、敢然と戦い進む、その生き方が自体が、仏法の偉大なる力の証明となっていく。つまり、広宣流布に生き抜く時、宿命は、そのまま自身の尊き使命となり、苦悩は心の財宝となるのだ。

学会への恐喝及び同未遂事件で逮捕された、山脇友政の裁判も続いていた。判決は、「被告人を懲役3年に処する」というものであった。当然、実刑である。「弁護士の守秘義務に背き、背信性が極めて強い犯罪であるといわなければならない」としていた。

さらに、「活動家僧侶と結んでその学会攻撃を支援し、かつ週刊誌等による学会批判を煽るような行動に出ながら」、他方において、僧俗和合を願う学会を脅迫するという、山脇の卑劣で悪質な手口も明らかにした。しかも、裁判においても、さまざまな虚偽の工作を行ってきたことを指摘。

「被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の、証拠を提出するなど、全く反省の態度が見られない」「本件は犯情が悪く、被告人の罪責は、重大」と断罪した。広布の行く手に立ちはだかる、いかなる謀略も、学会の前進を阻むことはできない。

山本伸一は、広宣流布のために僧俗和合への最大の努力を払い、宗門の外護に全面的に取り組んでいった。84年(昭和59年)1月初め、伸一は再び、法華講総講頭に任命された。日顕の強い要請を受けての就任であった。

3月、開創7百年記念慶祝準備会議の席上、伸一は、10年後を目標に、寺院2百カ寺の建立寄進を発表した。その寄進は、僧俗和合を願う学会の、赤誠の発露であった。翌1985年、10月、伸一は、日顕から開創七百年記念慶讃委員会の委員長の辞令を受けた。

90年夏、9月2日夕刻、慶祝記念文化祭が、盛大に開催された。隣には、日顕も、笑みを浮かべて演技を鑑賞していた。この年12月ーー宗門による、伸一と会員とを分離させ、学会を破壊しようとする陰謀が実行されることになるとは、誰も想像さえしなかった。

9月21日、伸一は、初めて韓国を訪問した。22日、韓国を発った伸一は、福岡、佐賀、熊本、鹿児島と回り、10月2日に東京へ戻った。そして、6,7の両日には、大石寺開創7百年慶讃大法要・初会に臨んだ。学会は、この時までに、正本堂の補修整備や、総一坊、総二坊の新築寄進などもしてきた。

初会二日目の7日には、伸一が発願主となって寄進した大客殿天蓋の点灯式も行われた。日顕は、大石寺開創七百年慶讃大法要で、初会第一日の説法でも、第二日の慶讃文でも、創価学会の功績を讃えた。なかでも、説法では、「特に、近年、信徒団体の創価学会の興出により、正法正義は日本ないし世界に弘まり」と絶賛したのである。

本会第二日には、日顕から伸一に、開創七百年の慶讃委員長として記念事業の推進にあたり、外後の任を尽くした功績は誠に顕著であるとして、感謝状並びに記念品の目録が贈られている。

慶讃大法要を終えた伸一は、各国の識者との語らいに余念がなかった。12月13日、伸一は、ノルウェーのオスロ国際平和研究所のスベレ・ルードガルド所長と聖教新聞社で会談した。

この日、墨田区の寺では、学会と宗門の連絡会議が行われた。会議が終了しようとした時、総監の藤本日潤が封筒を秋月に差し出した。先月の本部幹部会での伸一のスピーチについて、質問書を作成したので、文書で回答してもらいたいというのである。

唐突にして性急な要求であった。秋月は、何か疑問があれば、文書の交換などという方法ではなく、連絡会議の場で話し合うよう求めた。総監は、考え直すことを約束し、文書を持ち帰った。しかし、3日後の12月16日付で、宗門は学会に文書を送付した。「到達の日より7日以内に宗務院へ必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います」とあった。


伸一のスピーチは、世界宗教へと飛躍するための布教の在り方、宗教運動の進め方に論及したものであった。だが、その本義には目を向けぬ、一方的な難詰であった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

宿命との容赦なき闘争

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 277p

12月22日、分断の象徴であった、ベルリンのブランデンブルク門が解放された。伸一は、ニュースを見て、61年(昭和36年)10月ベルリンを訪問し、雨上がりの門の前で、同行のメンバーに語った言葉が思い出された。

「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう…」仏法者として世界の平和実現に一身を捧げようと決めた、彼の決意の表明でもあった。以来、28年ーー今、遂に、それが現実となったのだ。

1990年、ゴルバチョフはソ連の初代大統領に就任した。その平和への偉大な貢献に対し、ノーベル平和賞が贈られた。ゴルバチョフは、自身が推進するペレストロイカという人類史的実験がもたらす、試練と混乱をも予想していた。

長い間、闇の中にいた人が、突然外に出れば、太陽に目がくらむように、「自由」や「民主主義」が根差していない風土に、急にそれがもたらされていけば、人びとが戸惑うことは当然であった。

社会的にも、それぞれの勢力が、それぞれの主張をし始めるに違いにないーーゴルバチョフの、この憂慮は的中した。民族問題は各地で火を噴き、経済停滞の濃霧が行く手を塞いだ。特権の座にしがみつく官僚たちは、彼の排斥を企て、時流に乗る急進の改革者たちも、彼に非難を浴びせた。

そのなかで、ソ連連邦内に分離独立の動きが起こり、バルト三国などが、次々と独立へと走り始めた。時代は、彼の予想を超えて、激しく、奔馬のごとく揺れ動いた。ロシア革命から74年、東側陣営を率いてきたソ連は、歴史の大激流にのみ込まれるようにして幕を閉じた。

ソ連の最初にして最後の大統領となったゴルバチョフは、激しい非難にさらされたが、彼の決断と行動は、ソ連、東欧に、自由と民主の新風を送り、人類史の転換点をつくった。

ゴルバチョフは、アイトマートフに語った。「私は、ひとたび決めた道から外れることはありません。ただ民主主義を、ただ自由を、そして、恐ろしい過去やあらゆる独裁からの脱却をーー私が目指しているのは、ただただ、これだけです。国民が私をどう評価するかは国民の自由です。今いる人びとの多くが理解しなくとも、私はこの道をいく覚悟です……」

保身、名聞名利を欲する人間に、本当の改革はできない。広宣流布という偉業もまた、『覚悟の人』の手によってこそ成し遂げられる。

テロも激しさを増した。そして世界のあちこちで民族、宗教、経済などをめぐって対立の溝は深まり、局地的戦乱が広がりを見せていった。

山本伸一が、正信会僧らの理不尽な学会攻撃に対して、本格的な反転攻勢に踏み切り、勇躍、創価の同志が前進を開始すると、広宣流布の水かさは次第に増し、月々年々に、滔々たる大河の勢いを取り戻していった。しかし、広布の征路は険しく、さまざまな試練や、生涯を越えて進まねばならない。

伸一自身、個人的にも幾多の試練に遭遇した。84年(昭和59年)10月3日には、次男の久弘が病のために急逝した。享年29歳である。伸一は、久弘の死は、必ず、深い、何かの意味があると思った。広宣流布の途上に、さまざまなことがあるのは当然の理である。しかし、何があっても恐れず、惑わず、信心の眼で一切の事態を深く見つめ、乗り越えていくのが本物の信心である。

伸一もまた、1985年10月には、体調を崩し、精密検査のため大学病院に入院しなければならなかった。青春時代に胸を患い、医師からは30歳まで生きられないだろうと言われてきた体であったが、全力疾走の日々を送ってきた。会長辞任後も、世界を回り、以前にも増して多忙を極めた。

彼はこの時、師の戸田城聖が亡くなった58歳に、間もなくなろうとしていることを思った。また、自分のあとに会長となった十条潔も、58歳で他界したことを振り返りながら、決意を新たにした。“私には、恩師から託された、世界広布の使命がある。そのためには、断じて倒れるわけにはいかない。師の分までも、生きて生きて生き抜いて、世界広布の永遠の基盤をつくらねばならない!”

人生は、宿命との容赦なき闘争といえる。愛する人を失うこともあれば、自らが病に倒れることもある。あるいは、家庭の不和、子どもの非行、失業、倒産、生活苦…。これもか、これでもかというほど、怒涛のごとく苦難は襲いかかってくる。だからこそ、信心なのだ。自らを強くするのだ。信心で乗り越えられぬ宿命など、断じてない。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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