小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

創価学会破門通告

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 318p

伸一は、一貫して「御本尊という根本に還れ!」「日蓮大聖人の御精神に還れ!」「御書という原典に還れ!」と、誤りなき信心の軌道を語り示してきた。

同志は、宗門の強権主義、権威主義が露骨になるなかで、大聖人の根本精神を復興させ、人間のための宗教革命を断行して、世界広布へ前進していかねばならないとの自覚を深くしていった。その目覚めた民衆の力が、新しき改革の波となり、大聖人の御精神に立ち返って、これまでの葬儀や戒名等への見直しも始まったのである。

学会では、葬儀についても、大聖人の教えの本義のうえから、その形式や歴史的な経緯を探求し、僧を呼ばない同志葬、友人葬が行われていった。日蓮大聖人は仰せである。「されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱えしかば即身成仏の人なり」

この御書は、成仏は、個人の生前の信心、唱題によって決せられることを示されている。僧が出席しない葬儀では、故人は成仏しないなどという考え方は、大聖人の御指導にはないのである。

また、戒名についても、それは、本来、受戒名、出家名で、生前に名乗ったものである。大聖人の時代には、死後戒名などなく、後代につくられた慣習を、宗門が受け入れたに過ぎない。戒名は、成仏とは、全く関係ないものだ。

大聖人の仏法は、葬式仏教ではなく、一切衆生が三世にわたって、幸福な人生を生きるための宗教である。各地の学会の墓地公園は、そうした仏法の生命観、死生観のもと、皆、平等で、明るいつくりになっている。

学会の同志葬、友人葬が実施されると、その評価は高かった。ある学者は、次のような声を寄せた。「時代を先取りしているだけに、一部、旧思考の人びとから反発されるかもしれないが、これが将来の葬儀となり、定着することは明らかである」

各地の学会員は、第一次宗門事件後、再び宗門の権威主義という本性が頭をもたげ始めたなかで、仏法の本義に基づく平成の宗教改革に立ち上がった。それは、日蓮大聖人の正法正義に背き、広宣流布の和合僧を破壊しようとする、阿部日顕の法主退座を要求する署名運動となっていった。

11月29日、またしても学会本部に文書が届いた。「創価学会破門通告書」と書かれていた。宗門は、解散するよう勧告書を送ったが、学会が、それに従わないから、“破門”するというのだ。さらに、「創価学会の指導を受け入れ、同調しているすべてのSGI組織、並びにこれに準ずる組織」に対しても“破門”を通告するとあった。

戸田城聖のもとで学会の再建期から戦い、宗門の実態を見続けてきた草創の幹部たちは、日顕らの卑劣な策略を糾弾した。泉田はあきれ返りながら語った。「普通、破門は、人に対して行うものだが、学会とSGIという組織を“破門”にしたという。

そして、個々の会員には、宗門の信徒の資格は残るので、学会を脱会するよう呼びかけている。結局、学会員を奪って、寺につけようという魂胆が丸見えじゃないか。宗門の権威主義、保身、臆病、ずるさは、昔から全く変わっていないな。信心がないんだ。

だから、戦時中は、神札を受けるし、御書も削除している。また、何かあると、御本尊を下付しないなどと、信仰の対象である御本尊を、信徒支配の道具に使う。それと、注意しなければならないのが、創価の師弟を引き裂こうとしてきたことだよ」

宗門の腐敗と信徒蔑視の体質をよく知る、泉田ら草創の幹部たちは、今こそ戦おうと、宗門に対して率先して抗議してきた。「これで宗門が、大聖人の仏法を踏みにじり、謗法の宗となったことがハッキリしたわけだ。宗開両祖のお叱りは免れない!」

破門通告書が届いた29日、SGI会長の山本伸一への「教育・文化・人道貢献賞」の授賞式が行われた。これは、東京に大使館を置くアフリカ外交団26カ国の総意として贈られたもので、授賞式には、19カ国の大使等とアフリカ民族会議の駐日代表が出席した。アフリカ諸国の大使、大使館代表が、これだけそろっての訪問は。異例中の異例であった。

各国大使の心こもる祝福は、堂々と「魂の独立」を果たした創価の未来に寄せる、喝采と期待でもあった。授賞式翌日の30日「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」が全国各地で盛大に開催された。山本伸一は、この日を記念して句を詠み、全国の同志に贈った。「天の時 遂に来れり 創価王」この句を紹介した会長の秋月は「創価王」とは、創価学会員全員が信仰の「王者」の意味であることを伝えた。



太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

創価学会解散勧告書届く

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 310p

広宣流布を願う創価学会員の信心が、宗門を支え、総本山を大興隆させてきたのだ。学会は、総本山整備にも、最大の力を注いできた。戸田第二代会長の時代には、奉安殿、大講堂を建立寄進し、山本伸一が就任してからは、大坊、大客殿、正本堂をはじめ、総門、宿坊施設など、総本山の建物や施設を寄進した。

総本山所有の土地も、農地改革直後は、5万1千余坪にすぎなかったが、かつての23倍の117万余坪になった。その土地も、大半が学会からの寄進であった。こうした長年の外護の赤誠に対しても、学会員の真心の御供養に対しても、登山会の無事故の運営のために、止暇断眠して挺身してきた青年たちの苦労に対しても、一言のあいさつも感謝もなく、添書登山が始まったのである。

1991年(平成3年)7月、宗門は学会を辞めさせて寺の檀徒にする「檀徒づくり」を、公式方針として発表した。戸田城聖は、宗門の本質を鋭く見抜き、「宗門は金を持てば、学会を切るぞ!」と語っていた。その通りの暴挙に出たのだ。

仏法上、最も重罪となる五逆罪の一つに、仏の教団を分裂混乱させる「破和合僧」がある。この大重罪を犯したのだ。それは、供養を取るだけ取って切り捨てるという、冷酷、卑劣な所業であった。

また、宗門は、大聖人の教えと異なる「法主信仰」の邪義を立て、法主を頂点とした衣の権威によって、信徒を支配しようと画策していった。

しかし、その悪らつさと、時代錯誤の体質は、既に学会員から見破られていたのだ。日顕が、先祖代々の墓を福島市にある禅宗寺院の墓地に建立し、開眼法要を行っていたことがあきらかになった。”さんざん学会を謗法だなどと言っておきながら、こんなことまでやっていたのか“と、皆が呆れ果てたのである。

また、宗門の数々の腐敗堕落の実態も、次々と知られるようになっていった。これでは、もはや、日蓮大聖人の仏法ではない。日興上人の御精神は途絶え、富士の清流は、悲しいかな濁流と化してしまった。

今回の第二次宗門事件では、同志は陰険にして悪辣な宗門の謀略を冷静に見抜き、破邪顕正の情熱をたぎらせて、敢然と戦った。伸一は、会長を辞任した、あの第一次宗門事件の折、“もう一度、広宣流布の使命に生きぬく師弟の絆で結ばれた、強靭な創価学会を創ろう”と、同志一人ひとりに徹して光をあててきた。

“皆が一人立つ勇者になってほしい”と、広宣流布の魂を注ぐことに必死であった。そのなかで、後継の青年たちも見事に育ち、いかなる烈風にも微動だにしない、金剛不壊の師弟の絆で結ばれた、大創価城が築かれていったのである。しかも、その師弟の精神は、広く世界の同志の心を結んでいった。

創価の同志が心を一つにして、日顕ら宗門による弾圧を、乗り越えていく力になったのが、1989年(平成元年)8月24日から始まった、衛星中継であった。この時から、全国の主要会館の大画面に、映像も流れることになったのである。衛星中継を通して同志は、深く、正しく、問題の真実と本質を知った。

そして、“何があっても、腐敗した宗門の策略などに負けず、共々に広布に走り抜こう!”と、皆の心は、固く、強く、一つに結ばれたのである。

1991年11月8日、宗門から「創価学会解散勧告書」なる文書が届いた。差出人は、管長・阿部日顕、総監・藤本日潤である。そこには、僧と信徒の間には、師匠と弟子という筋目の上から厳然と差別があり、学会が法主や僧を師と仰がず、平等と主張することは、「僧俗師弟のあり方を破壊する邪見」などとして、創価学会並びに、すべてのSGI組織を解散するよう勧告してきたのである。

しかし、そもそも創価学会は、昭和27年に、既に宗門とは別の宗教法人となっているのだ。第二代会長・戸田城聖の先見の明によるものである。この英断によって正義の学会は厳然と守られたのだ。宗門は、法的にも解散を勧告できる立場ではなく、なんの権限もないのだ。

学会員は、解散勧告書の内容に失笑した。「大事なのは、何をしてきたかだ。だいたい、折伏をしたことも、個人指導に通い詰めて信心を奮い立たせたこともほとんどない、遊びほうけてばかりいる坊主が、どうやって、こうるに生き抜いてきた学会員を指導するつもりなんだ!」

葬儀や塔婆供養等を利用した貪欲な金儲け主義、腐敗・堕落した遊興等の実態。誠実に尽くす学会員を隷属させ、支配しようと、衣の権威をかざして、「謗法」「地獄へ落ちる」などと、繰り返エされた脅しーー同志は、“こんなことが許されていいわけがない。”との思いを深くしてきた。そして、“何のための宗教か”“誰のための教えなのか”と声をあげ始めたのである。



太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

月例登山会の廃止

『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 302p

大聖人の仏法は、民衆の幸福のためにこそある。もしも、宗門によってその根幹がゆがめられることを放置すれば、横暴な宗門僧らの時代錯誤の権威主義がまかり通り、不当な差別を助長させ、混乱と不幸をもたらしてしまうことになる。

まさに、「悪人は仏法の怨敵には非ず三明六通の羅漢の如き僧侶等が我が正法を滅失せん」と仏典に説かれているごとく、正しき仏法が滅しかねないのだ。さらに、学会が、深く憂慮したことの一つは、宗門の文化などに対する認識である。

彼らの文化に対する教条主義的、排他的な態度は、ベートーベンの第九「歓喜の歌」についてだけではなかった。「英国王室のローブ展」の展示品・ガーター勲章を紹介したところ、そこに「十字」の紋章が施されているのを見て、役僧がクレームをつけてきたのである。

文化・芸術にせよ、風俗習慣にせよ、人間社会の営みには、多かれ少なかれ、なんらかの宗教的な影響がある。「西暦」にしても、イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年としているし、日曜日を休日とするのもキリスト教の安息日からきている。

また、「ステンドグラス」も、教会の荘厳さを表現するために発達してきた、キリスト教文化の所産である。西欧の多くの建造物や建築様式には、キリスト教が深くかかわっている。だからといって、それを拒否するならば、社会生活は成り立たない。

仏法には、「随方毘尼」という教えがある。仏法の根本法理に違わない限り、各国、各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきであるとするものだ。

シラー原詞の「歓喜の歌」には、「神々」との表現はあるが、それは特定の宗教を賛美したものでは決してない。「歓喜の歌」は、人間の讃歌、自由の讃歌として世界で歌われてきた。チェコスロバキアで、“ビロード革命”によって無血革命を祝賀する演奏会や、壁が崩壊したベルリンで、東西ドイツの融和を祝って、まさに、自由と融和の勝利の象徴が、第九であり、「歓喜の歌」であったのである。

宗門が、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して、ドイツ語の合唱に、「外道礼讃」とクレームをつけたことに対して、外部の識者らが次々と声をあげた。哲学者の河端春雄教授は、「人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒をつくり断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」と指摘する。

作家の牛島秀彦教授は、文化の本質に立ち返り、訴えている。「合唱部分を異教徒として断罪、排斥することは、世界の文化、ひいては人間の生活様式を否定するという論理になってしまう。それでは、日蓮大聖人の遺命とされる世界への布教は決してなされないのみか、自らがそれを阻んでいることを認識する必要がある」

“今こそ、人間に還れ”ーー新しき時代のルネサンスの必要性を、同志は痛感した。また、学会の首脳たちは、宗門僧の振る舞いにも、心を痛めてきた。各地の会員からは、傍若無人な言動や、遊興にふけり、華美な生活を追い求める風潮に、困惑、憂慮する声が数く寄せられていた。

大聖人は、折伏もせず、「徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を奢たる畜生なり」と仰せである。広宣流布への志を失い、衣の権威を振りかざす宗門僧の姿は、学会の草創期から見られた。ゆえに第二代・戸田城聖は、たびたび宗門僧に対して、信心の赤誠をもって厳しく諫めてきたのである。

学会は、日蓮大聖人の御遺命たる世界広宣流布を進めていくために、いかなる圧迫があろうとも、言うべきことは言い、正すべきことは、正さぬわけにはいかなかった。

3月のことである。学会との話し合いを拒否し続けてきた宗門は、突然、海外組織に対する方針の転換を発表した。これまで海外では、SGI以外の信徒組織は認めなかったが、その方針を廃止する旨の通知を送付してきたのである。

さらに、学会の月例登山会を廃止し、7月からは、所属寺院が発行する添書(登山参詣御開扉願)を所持しての登山しか認めないと通告してきた。学会の組織を切り崩そうとする意図は明らかであった。学会員は、その一方的で傲岸不遜なやり方にあきれ返った。信心の誠をもって登山を重ね、また、総本山を荘厳するために、身を削る思いで供養し続けてきたからである。

総本山の大石寺は、戦後、農地改革によって、それまで所有していた農地の大半を失い、経済的に大打撃を受け、疲弊の極みであった。すると、宗門は、生活手段を確保するために、大石寺の観光地化を計画した。

その話を聞いた戸田城聖の驚き、悲しみは大きかった。総本山を、金のために信仰心のない物見遊山の観光客に開放し、大聖人の御精神が踏みにじられてしまうことを憂えた。そして、事態打開の道を考え、定例の登山会を企画し、実施したのだ。これによって、宗門は窮地を脱し、大いなる発展を遂げた。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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