『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 348p
山本伸一は、広布に走った。西暦2000年、つまり20世紀中に、その布石を終えるため、力の限り、世界を駆け巡ろうと心に決めていた。21隻の開幕の年、伸一は73歳となる。そして、80歳までには、世界広布の基盤を完成させたいと考えていたのである。
1992年(平成4年)6月上旬から7月上旬にかけては、ドイツなど、欧州3カ国とエジプト、トルコを訪問した。ドイツでは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアの中欧・東欧やロシアなど、13カ国の代表メンバーが集い、歴史的な合同会議が行われた。10月には、第八次訪中を果たした。
1993年を、学会は「創価ルネサンス・勝利の年」と定めた。山本伸一は1月下旬から、約2か月にわたって、北・南米を訪問した。アメリカでは、カリフォルニア州にある名門クレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題して特別講演した。
講演の講評を行ったのは、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士であった。博士は、「講演で示された菩薩の精神こそ、人類を幸福にするもの」と評価し、「私たちには、創価学会があります」と高らかに宣言した。
さらに、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。彼女は、著名人が、人生に最も影響を与えた写真を1枚ずつ選んで、「写真は語る」という本に載せる企画で、自分が選ばれ、「会長の出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと思ったからです。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もしよろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが…」
彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。冒頭には、こう書かれていた。「わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、『世界平和のための新たな一歩なのです』と。
2月6日、山本伸一は、コロンビア共和国へ向かった。セサル・ガビリア・トルヒーヨ大統領並びに文化庁の招聘によるものである。当時、麻薬組織によるテロ事件が相次いでいたのである。国内には非常事態宣言が出されていた。大統領府から伸一に、訪問について、問い合わせがあった。彼は、言下に答えた。「私のことなら、心配はいりません。予定通り、帰国を訪問させていただきます」彼は、たとえ何があろうとも、信義には、どこまでも信義をもって応えたかった。それが友情の道であり、人間の道であるからだ。
9日、彼は、ブラジルのリオデジャネイロへ向かった。空港では、伸一が到着する2時間前から、一人の老紳士が待ち続けていた。南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁である。
総裁は、恩師・戸田城聖と、ほぼ同じ年代である。伸一は、総裁と戸田の姿が二重移しになり、戸田が、自分を迎えてくれているような思いがした。「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」その言葉には、全人類の人権を守り抜かねばならないという、切実な願いと未来への期待が込められていたにちがいない。
戸田城聖の生誕記念日である2月11日ーー伸一が、戸田の広宣流布への歩みを綴った小説「人間革命」全12巻の「聖教新聞」紙上での連載が完結した。
12日、伸一はブラジル文学アカデミーを訪れ、アタイデ総裁と会談した。総裁は、静かだが、深い思いのこもった口調で、切々と訴えた。「私は、もうすぐ百歳を迎えます。これまで生きてきて、これほど『会いたい』と思った人は初めてです」二つの魂は、強く、激しく響きあった。既に、この日から対談は始まっていた。
伸一は、会談に引き続いて、ブラジル文学アカデミー在外会員の就任式に出席した。文学アカデミーが、“文化・文学の偉大なる保護者”と認める在外会員には、ロシアの文豪レフ・トルストイ、フランスの人道主義作家エミール・ゾラ、イギリスの社会学者のハーバート・スペンサーなど、知の巨人たちが名を連ねてきた。伸一は、日本人としても、東洋人としても、初めての在外会員となる。
この式典には、ブラジルの新聞各社が取材に訪れており、伸一の在外会員就任と記念講演を報道した。ブラジルでの顕彰は、SGIメンバーの社会貢献と、学会理解への着実な努力の勝利であると思った。かつては、学会への誤解と偏見から、伸一の入国さえ許可されないことがあったが、今、南米最高の知性の殿堂から最高の評価と深い信頼を得て、在外会員となる時代になったのである。
伸一は、一人ひとりの同志を心から讃え、「ブラジル万歳!」と叫びたかった。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
山本伸一は、広布に走った。西暦2000年、つまり20世紀中に、その布石を終えるため、力の限り、世界を駆け巡ろうと心に決めていた。21隻の開幕の年、伸一は73歳となる。そして、80歳までには、世界広布の基盤を完成させたいと考えていたのである。
1992年(平成4年)6月上旬から7月上旬にかけては、ドイツなど、欧州3カ国とエジプト、トルコを訪問した。ドイツでは、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアの中欧・東欧やロシアなど、13カ国の代表メンバーが集い、歴史的な合同会議が行われた。10月には、第八次訪中を果たした。
1993年を、学会は「創価ルネサンス・勝利の年」と定めた。山本伸一は1月下旬から、約2か月にわたって、北・南米を訪問した。アメリカでは、カリフォルニア州にある名門クレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題して特別講演した。
講演の講評を行ったのは、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士であった。博士は、「講演で示された菩薩の精神こそ、人類を幸福にするもの」と評価し、「私たちには、創価学会があります」と高らかに宣言した。
さらに、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。彼女は、著名人が、人生に最も影響を与えた写真を1枚ずつ選んで、「写真は語る」という本に載せる企画で、自分が選ばれ、「会長の出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと思ったからです。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もしよろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが…」
彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。冒頭には、こう書かれていた。「わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、『世界平和のための新たな一歩なのです』と。
2月6日、山本伸一は、コロンビア共和国へ向かった。セサル・ガビリア・トルヒーヨ大統領並びに文化庁の招聘によるものである。当時、麻薬組織によるテロ事件が相次いでいたのである。国内には非常事態宣言が出されていた。大統領府から伸一に、訪問について、問い合わせがあった。彼は、言下に答えた。「私のことなら、心配はいりません。予定通り、帰国を訪問させていただきます」彼は、たとえ何があろうとも、信義には、どこまでも信義をもって応えたかった。それが友情の道であり、人間の道であるからだ。
9日、彼は、ブラジルのリオデジャネイロへ向かった。空港では、伸一が到着する2時間前から、一人の老紳士が待ち続けていた。南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁である。
総裁は、恩師・戸田城聖と、ほぼ同じ年代である。伸一は、総裁と戸田の姿が二重移しになり、戸田が、自分を迎えてくれているような思いがした。「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」その言葉には、全人類の人権を守り抜かねばならないという、切実な願いと未来への期待が込められていたにちがいない。
戸田城聖の生誕記念日である2月11日ーー伸一が、戸田の広宣流布への歩みを綴った小説「人間革命」全12巻の「聖教新聞」紙上での連載が完結した。
12日、伸一はブラジル文学アカデミーを訪れ、アタイデ総裁と会談した。総裁は、静かだが、深い思いのこもった口調で、切々と訴えた。「私は、もうすぐ百歳を迎えます。これまで生きてきて、これほど『会いたい』と思った人は初めてです」二つの魂は、強く、激しく響きあった。既に、この日から対談は始まっていた。
伸一は、会談に引き続いて、ブラジル文学アカデミー在外会員の就任式に出席した。文学アカデミーが、“文化・文学の偉大なる保護者”と認める在外会員には、ロシアの文豪レフ・トルストイ、フランスの人道主義作家エミール・ゾラ、イギリスの社会学者のハーバート・スペンサーなど、知の巨人たちが名を連ねてきた。伸一は、日本人としても、東洋人としても、初めての在外会員となる。
この式典には、ブラジルの新聞各社が取材に訪れており、伸一の在外会員就任と記念講演を報道した。ブラジルでの顕彰は、SGIメンバーの社会貢献と、学会理解への着実な努力の勝利であると思った。かつては、学会への誤解と偏見から、伸一の入国さえ許可されないことがあったが、今、南米最高の知性の殿堂から最高の評価と深い信頼を得て、在外会員となる時代になったのである。
伸一は、一人ひとりの同志を心から讃え、「ブラジル万歳!」と叫びたかった。